釣り堀屋と仏教と猫

世間には秋休みというものがあるらしく、てっきりそれはシルバーウィークのことだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

そんなわけでこの3連休はそこそこ忙しく、事前に準備していたにもかかわらず食材その他が期間中に尽きてしまった。失態である。

ということで閉店後、白石中心街に買い出しに向かった。

道中、暗闇の中でミャーミャー鳴いている物体があったような気がしたのだが、その付近に複数の人間がいたのにガン無視の様子だっため勘違いか?と考えバックミラー越しにやり過ごした。

買い出し後、もしや?と思い同じ場所に寄ってみたところ、2匹の子猫がいるではないか。

まずい。非常にまずい。

私は今本当に忙しく、明日は5時には店に行かねばならぬが、片付けも仕込みも何も終わっておらず、それは即ち「今日」がまだ終わっていないことを意味する。猫に構っている時間はない。

そして私にはスキルがない。子供の頃野良猫を餌付けして外飼いをしたことはあるが、出会った時点で奴はもう立派なおっさん猫だった。死んだときは一緒にいてやれなかったから、飼ったといえるような実績でもない。よく考えれば賃貸の我が家では飼うこともできぬ。

かように、普段の私のスペックですらどうすることもできそうにないのに、明日のことすら予想が当たらずままならない今の私にこの小さな命をどうすることができようか。

ひとまずスマホでAIに聞いてみたが、残念ながら老眼で見えぬ。役立たずである。

あとで確認したところ「子猫どうすりゃいいんだ」と聞いたつもりが「金子どうすりゃいいんだ」と書いていたようで、回答も質問もどうにもならない。金子さんにもすまない。

とはいえ、私はブッディストの端くれだ。

子猫がかわいそうだから拾う。それは慈悲なのだろうか考えねばならぬ。

否、かわいそうな子猫を見ている自分がつらいから、そのつらさから逃れるために拾うのではないか。あるいは、子猫を見捨てた人間であると思いたくないから拾うのではないか。逆に、責任を負うのが嫌だから、もっともらしい理屈をつけて逃げようとしているだけなのか。

育てられる自信がないから拾わない。放っておいても、もっと猫に詳しい人が偶然見つけて保護してくれるかもしれない。それはそれで、合理的な判断なのかもしれない。

そんな逡巡。

一方で、ブッダは執着を捨てよともいう。

ここで子猫を拾うことは執着なのだろうか。あるいは、拾わないことこそ自分の生活への執着なのだろうか。そもそも、執着を捨てるということは、何も大切にしないということなのか。そうではないだろう。

「捨」は無関心とは違う。慈悲を持ちながらも、結果を自分の思いどおりにしようとする心に囚われないことだ。

そもそも私の職業は釣り堀屋だ。毎日毎日生き物を殺してしまっている。子猫だけの生を願うのは、いったいどういう矛盾の構造なのか。

だとすると重要なのは「拾うか拾わないか」という二択ではないのかもしれない…。

などという極めて下らぬことを考え、しかしブッディストだから考えねばならず、まぁ要するに結局は連れて帰った。

ブッダはラーフラに説いた。行為の前に、行為の最中に、行為の後に、自分や他人にどんな害をもたらすかを繰り返し省察するようにと。

「前に」つったって、ブッダよそんな暇はないのだよ。切迫しているのである。ひとまず連れて帰り、のちに改めて考えることにした。とにかく死んだら元も子もない。

さて、店に戻って様々探したのだが、猫にあげられるものはなさそうだ。

ニジマス食うか?と聞いてみたが、ミャーとのことだった。猫語はよくわからんが、要するに食わんということだろう。

落ち着いて店のPCで改めて聞いてみる。Gemini、ChatGPT、Claude、Perplexity、DeepSeek。契約している全てのAIの最新モデルで「高」でいくべし。

みんな言っていることが違う。まぁそれはやらなくてもわかっていた。

画像診断もしてもらった。生後数日というAIもいる。1ヶ月というAIもいる。アテにならぬが「このままだと死ぬんか?」と聞いたら、明日までもたぬということだけは一致した。

そしてGeminiはとにかく熱心に「今すぐドラッグストアに行って猫用ミルクとスポイトを買ってこい」と言ってくる。

そんなもんねーだろと思ったが、今は21時。ギリギリ白石のツルハはやっておる。行かねばブッダに怒られそうだ。

案の定売ってなかったが、Claudeはお腹にやさしい乳糖のない牛乳も買ってこいとのことだったので、隣のヤマザワにそれを求めゲット。

帰りは母猫を捜索しまくったのだが、残念ながら車に轢かれたようで亡くなっていた。路上はかわいそうなのでひとまず白石の河原に亡骸を移動し供養。

再び店に戻ってきたのが24時である。

車中、猫たちはその牛乳みたいなものに水を加えたものを少しだけ飲んでくれた。なんとか生きながらえたようだ。

というような一日であった。なんでも2~3時間ごとに食べさせなきゃいけないらしい。寝てられんが、その間やることもないからこうしてブログを書いている。

ラーフラへの教えに想う。

振り返れば、本当は救急病院という手があったかもしれない。猫を飼ったことがある知人をたたき起こしてでも助けを請うた方がよかったかもしれない。乳糖のない牛乳のようなものも正解かどうかわからない。

無明とまでは言えぬかもしれないが、無知ゆえによりよい可能性を考慮できなかったのは事実だ。

とはいえ過度に自分を裁いても仕方あるまい。現実にある目の前の事象で「知らなかった」ことで変えられたかもしれないことへの反省は十分にした上で、将来の行為を変えるほかない。

ラーフラへの教えには続きがある。善い行為を省察した後、それを喜ぶことも必要だと。

善い行為かどうかは知らんしどうでもよいが、とにかく彼らが元気なのは本当によかったと思っている。それが何よりも喜びだ。

そしてエセブッディストは再び考える。猫を助けたことは執着だったのか、合理性だったのか、もっとよい方法があったのか。正解はわからんが、いつの日か猫と一緒に喜べる日がくるとよい。これからたくさん猫の勉強をして、幸せになってもらえるよう全力を尽くす所存だ。

それも縁だから。